名古屋白龍 住環境を守る会
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白龍の郷土と街並み

 千年余の昔し、「荘園制度」の時代に、この地域の豪族により「遠浅の海」が開拓された土地。 二つの流域の合流部に「つつみ/堤防」を築き上げました。 その名が「蛸が池・田光ケ池」が古地図に残ります。 その名が町名に成り「田光町」と留めています。 農地を潤す灌漑池を得て、発展して行きます。灌漑池の氾濫が度々起き、それを、鎮めんと池の畔に「白龍神社」を建立。「田光ケ池の主・白龍大王」の「怒り」と受け留め、今も、住民の手で祀られています。
 「田光ケ池の」西岸部の小高い部分を、誰言うとも知れず「しょうぐん山」と呼んだ様です。
 教育委員会は、この地の豪族の「館・居城/田光城」跡を「史跡・田光城」と指定しています。 城主は田光氏、森部氏、新田氏と数説あるも判然としません。「東鑑」にその城が明記されています。
 建久4年(1195年)頃、熱田大宮司家の「千秋範経」が城主であり、代々千秋家の居城で在った事が、最も確実な史実かと思われます。


 在住の「霊能者」の脳裏に、この地の館を守って居たであろう「鎧兜の武装集団」が蠢く様が「観える」と語って居ます。その後、泥にまみれた30㎝弱の玉石が出土。 「白龍大王」と刻まれており、津賀田神社に祀られ、今も観る事が出来ます。

 一説に、「田光ヶ池」の畔の小高い部分が15m程で、この高さ以上の物の構築を、この地の主「白龍大王」が許さず、「破戒」するに「祟る」と信じられ、現代に成っても、この地の旧所有者は「45mを建てるも可能」と判りながら、単身寮の建物は、3階建及び4階建て(12m)に留めて居ました。きっと、「祟り」以外に「何か守らねばならない事」をわきまえていた事でしょう。今!。その高さを「45m」で破ろうとしています。
 以前の旧 所有者の創業家の方々は「環境保全・地域調和」を意識して居られた「証し」に他なりません。その「見識・良識」に敬意を表します。

「祟り」云々は別として、「超えては成らない」、「ヒューマンスケール」が存在するのでは在りますまいか。